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October 26, 2018

ジャーナリストの人質事件についての会話。

>>安田純平氏の件ってどうなんですか? 私は、戦場ジャーナリストを名乗る以上、自身のセキュリティには最大限注意すべきだと思ってます。カタールが払ったという3億円の身代金も……。
>>私の考えが歪んでいたらごめんなさい。
>>でも、自分の行動で、他人様に迷惑をかけるって我慢ならない。しかも、3回目! 日本の報道を見てると、ジャーナリストは支持してますね。彼を。

>彼のこれまでの発言、行動を見ているととても支持できないし、「いい加減にしろ」「自己責任だろ」と言いたくなるのも分かります。僕も「なんなんだこの人は」と思う。
>でも、それでも、そんな人間でも、海外でヤクザな犯罪集団に拘束されたとなればその解放に最大限可能な努力をするのが国家であるし、それがあるべき姿だと思います。 >たとえ一納税者としては腹立たしく思えたとしても、国家の威信と信頼を維持するためには必要なコストだと思いますよ。

>>なるほどね。
>>今回の事件と離れますが、湯川遥菜さんのときには、あんまり日本政府は熱心に動いたようには見えなかったけれど、それは高度の国際政治的問題から実は隠密裏にやっていたんだけど間に合わなかった・・・、ということなんでしょうか。

>>それと、カタールが3億円?の身代金を払ったということなんですが、カタールがたまたま金持ちだったからよかったようなものの、日本政府は絶対に払わない、という姿勢だよね。最大限可能な努力、というのは、「金を払わないで」という前提となると、なかなか解放交渉はシンドイのではないかと思うのです。私個人は、国家が身代金を払えとは思ってないです。ただ、先方が金を要求する以上、いくらなんでも交渉に限界があるのでは、という意味。

>「最大限可能な努力」も限界はあるのですが、努力しているという姿勢を見せることが大切なんではないでしょうか。

>実際上は手詰まりになって、だからいつまでも解決しないまま時間が過ぎていくわけで。 >身代金については、これは本当に払ったかどうか分かりません。「身代金の要求には応じない」が正攻法であり、払わないから解決しないし、場合によっては人質が殺害されることもやむなし、というのが正しいとされていますが、実は裏でこっそり払っている可能性は否定出来ないです。アメリカでさえ、「絶対払わない」と言っていたのに、事件解決後何年も経って、実は払っていたことが暴かれたケースがあり、欧州諸国も実は払っていたのではないかと疑われる事案があると聞きます。 >今回はカタールが払ったことになっているそうですが、実際は誰が払ったのか、あるいは誰も払っていないのか、分かったもんじゃないです。

>>なるほどね。身代金のことは、だれもわからない・・・それはそうだわね。
>>日本の報道機関の論調だと、ジャーナリストなんだから英雄だ・・・という感じなのですが、民間人だろうがジャーナリストだろうが、日本政府としては同じ扱いということだよね。
>>ジャーナリストといっても、単に目立ちたがりの冒険野郎の自称ジャーナリストの人もいるだろうし。
>>とにかく政府は「日本国民を見捨ててません。努力してます」という姿勢を示すことは大事で、今回は、幸いにも結果が伴った、ということでしょうかね。


>どんなに愚かしい人でも、どんなに政府に批判的な人でも、政府は国民を守るという姿勢を取ることが必要だと思います。 >どんなに馬鹿で自己責任で貧困に陥った人でも、政府にはすべての国民に福祉を提供することが憲法上求められるのと同じでしょう。


>>なるほどー。
>>ということになると、ジャーナリストと民間人は、あまり違いはないということだね。


>政府は、ジャーナリストは民間人に分類していると思います。一般旅券所持者は民間人かな。あるいは軍人でなければみんな民間人。

>っていうか、報道機関がジャーナリストを民間人と区別して英雄扱いしてるのなら、そこが変。英雄のジャーナリストもいれば、愚かなジャーナリストもいる。 >医者だから、サラリーマンだからという肩書だけではその人の偉さは測れないのに、ジャーナリストの自分たちは特別であると自分たちで報じているなら、その選民意識が人々から嫌われる理由の一つではないかと。

>>それだ!


November 27, 2011

現実はひとつじゃない。

ニュースドキュメンタリーを撮影するフリーランスの人を表彰するRory Peck賞というのがありましてですね。

「The Rory Peck Trust」
http://www.rorypecktrust.org/page/1/Home

2011年の受賞者に「Zimbabwe's Forgotten Children」を撮ったJezza Neumannという人が選ばれてます。この「Zimbabwe's …」は去年の8月にBBCで放映されたようですが、(http://www.bbc.co.uk/programmes/b00r5ww9)すでにYouTubeにもいろいろアップロードされているようですし、今度BBC Worldでもダイジェストを再放送するそうです。

で、この「Zimbabwe's …」、私はほんの一部分しか見てないんですが、かなり辛い内容。ジンバブエの田舎で、お父さんは既にHIV/AIDSで亡くなっていて、お母さんもAIDSを発症してもう動けないという9歳の女の子が、妹とお母さんの面倒を看ています、という内容。たぶんその子自身もHIVポジティブ。

その子の住んでいる村の学校など周辺の様子も映るんですけど、それがもう、これが日本人が「アフリカ」と聞いて思い浮かべる景色でしょう、という典型的な貧しさ。一応学校の建物はあるんだけど、荒廃してただレンガを積んだだけって感じになってて、その中に貧しそうな子どもが集まってる。服もろくに着てない、ホコリっぽい子どもたち。そして、その学校にさえ行けない子がたくさんいます、というお話。

AIDSのお母さんの面倒を見ている(シモの世話までしている)その子ですが、Jezza Neumannさんが取材をしている期間中に、お母さんが死んでしまう。するとその子は、「もうこれで面倒を見なくてよくなったのでほっとした。」と言うんですよね。お母さんが死んだのに、9歳の女の子がこういうことを言ってしまう状況って、ほんと辛い。見てて胸が潰れます。

一方で。


このところ縁あってジンバブエの首都ハラレに滞在しているんですが、昨日、近所のショッピングモールに行ったら、カワサキの新車の大型バイクの屋外展示会をやってました。露店でソフトクリームやホットドッグも売ってて、およそアフリカとは思えない雰囲気です。このショッピングモールが特別な場所なのかと言われれば、ハラレ市内にこの手のモールは何か所でもあるし、客は白人の割合が高いとはいえ、黒人も普通にそぞろ歩いてる。そもそも、ジンバブエ国内はハラレに限らず、主要な町や観光地には、すてきなリゾート風のホテルやロッジがいくらでもある。

どちらも現実なのです。忘れ去られた子どもたちが、AIDSの親の面倒を見なきゃいけなかったり、学校にも行かず砂金掘りをしなきゃいけなかったりする現実もある。他方で、朝からお母さんに起こされて朝食を食べたら車で広い芝生の校庭がある学校に送ってもらって、学校帰りにはファーストフードでピザを買って帰る、そんな生活も一般的。

その差に愕然とします。
この20年くらいで日本でも格差が格差がとうるさくなってきましたが、アフリカのこの格差に比べたら、ちょっともう、恥ずかしくて話題に持ち出せないくらいです。


ちなみに、ジンバブエはメディアの取材活動が極めて難しい国のひとつです。そもそも政府はほとんど取材許可を出さないらしく、中央情報局や警察の監視の目も厳しいし、取材活動を犯罪として取り締まることのできる法律もあります。それどころか、なんでもないところでも街中で写真を撮ったりビデオを撮ったりしただけで、すぐにトラブルになります。プライバシー保護法みたいなのもあって、警察や中央情報局とは関係なくても、街でぶらぶらしている若者から難癖つけられたりしますしね。私がハラレに滞在していてもハラレ市内の写真をほとんど持っていないのは、街中でカメラを構えることのリスクが高すぎるからでもあるんです。そんなややこしい国なので、「Zimbabwe's …」の撮影もほとんど隠し撮りらしいです。Jezza Neumannさんはインタビューで、一応なんとか撮影許可は取ったけど12回も職務質問を受けたと言ってました。

しかし、ジンバブエ政府当局(ムガベ大統領与党)が外国メディアの取材を厳しく規制する動機も、その立場になって考えれば理解はできます。カダフィや金日成が盟友だというムガベ大統領の与党は欧米とは敵対していて、欧米のメディアは「ジンバブエはこんなにヒドい。」という映像を撮りたがる。そんな状況で自由に取材させれば、「Zimbabwe's …」みたいな番組ばかりが作られることになる。そしたら、ジンバブエに対する風当たりがますます強くなる。だから「西側メディアは偏向した報道をするので、正しい情報を伝えるため、政府が管理する必要がある。」などと言いだす。無論、むやみやたらな取材規制は是認できないし、テレビやラジオが全部国営っていうのが健全なはずはないのですが。

要は、現実は複数あるのです。


家もなく今日食べるものの算段もないままAIDSの母親の世話を焼く女の子や、学校にも行かず砂金掘りをしなきゃいけない少年がいるのも現実で、カワサキの大型バイクが売れたり、生活習慣病が社会問題になったりしているのも現実。アフリカの小国(ジンバブエは実はそんなに小国ではありませんが)だからといって、一色で塗り込められているわけでないのです。しかし、如何せん日本からは遠くて情報も少ないので、パターン化したイメージに陥りやすい。Jezza Neumannさんの「Zimbabwe's …」のような作品で、見逃されがちなアフリカの問題を世に問うていくことは大切なことですが、それがアフリカのすべてではないことも覚えておきたいと思うのです。

*   *   *

しかし、このところハラレ市内でやたらに道路脇を掘り返しているのはインターネット用の光ファイバーを埋設しているらしい。聞けば、ハラレだけじゃなくて、国内主要都市から国外まで繋ぐそうな。政府がメディアを規制しても、インターネットがもっと安く、速く、安定して使えるようになったら、事情は変わる気がします。携帯電話も今はテキストメッセージと音声通話がほとんどですが、徐々にデータ通信も普及し始めているみたいだしね。


September 04, 2011

「絶対安全」の空気と戦う。

以前、生きている以上各種のリスクは不可避なんだし、リスクと賢く付き合って行くしかないんだよ、っていう記事を書いたんですが(「絶対に」安全、なんてないのさ。)、相変わらずゼロ・リスクを求めるヒステリックな声が席巻している件。

なんて書くと、「安全厨」だのなんだのって批判を受けそうなのですが、幸い私のブログは読者が少ないのでまあいい。それでも、上記の記事は@sasakitoshinao氏にリツイートされたり、ガジェット通信経由でそこここに転載されたりしたので、それなりに読んだ人の反応を見ることがありました。意外と私の記事に賛意を示してくれる人が多くて安堵したんですが、やはり5件か10件にひとつくらい、ゼロ・リスクの主張に通じる議論にならない議論をふっかけるコメントもありましたよ。

さてそれで。

この「絶対安全」を求める空気なんですけど、「合理的に考えよう」「リスクと賢く付き合おう」と述べただけの人を「でも、危険性はゼロではないんですよね?それを認めるのは無責任じゃないですか?」「子どもたちの内部被曝を認めるんですか?ひどいですね。」というような言説で押しつぶそうとしているように感じます。正直、この空気が怖いです。マスコミはどちらかというとこの空気に乗っかった報道をするところが多いみたいですし(私が海外に住んでるので実態はよく分からないですけど、そう思われるような話はよく聞く)、今、政府や自治体や東京電力が「リスクと賢く付き合おう」とか言うと猛反発を受けそうな気もする。政治家が会見の時に使う異常にへりくだった敬語の表現なんか聞いてると特にそう思う。しかし、そうやってゼロ・リスク主義者に迎合していると、何にもできないばかりか、危うい方向にいっちゃう恐れだってあるなと思うのです。

*   *   *

第二次世界大戦の総括について「暴走した愚かな軍部が突っ走って起こしたもの。一般国民がそれに動員されてあの悲劇になった。」という単純な物語が作られ、東京裁判という劇場で「愚かな軍部」を罰して責任を押し付け、とりあえず人々は気持ちの折り合いをつけて戦後日本は出発したという側面があると思います。でも、本当はそうじゃなかっただろうと思うんですよ。戦争を経験していない私が言うのもアレですけど、きっと国民の間にも戦争を進める「空気」があったに違いない。そして「竹槍じゃ戦闘機には立ち向かえませんよね?」「精神論には限界がきてますよね?」という意見を封じ込めてしまったんだろうと思うのです。きっとそういう合理的な考えを持つ人もいた。おかしいと感じている人もいた。でも、「ほしがりません勝つまでは」っていう国防婦人会のノリに抗しきれなかったんだと思う。

なぜいきなりこういう話を書いているのかというと、ちょっと大げさかもしれないけど、今、ゼロ・リスク、特に放射線被曝に対してゼロ・リスクを訴えまくってる人たちの醸し出す空気って、この国防婦人会的な空気に似たものがあるような気がするんです。どちらも基本は善意から始まっているところも似てる。正義感にかられているところも似てる。そして、反論すれば「非国民」のラベルを貼られる恐怖がある。私が今の「絶対安全」を求める空気が怖いと感じるのも、この「非国民」のラベルを貼られる可能性を感じているからなんですよ、きっと。

*   *   *

正直、今書いているこの記事をネット上に公開するのもちょっと気が引けるところがあるのは本音です。やっぱりネット上でも叩かれるのは凹むから。自分がかわいいから。でも、後になって「あのとき、竹槍じゃ戦闘機には立ち向かえないと思っていたんですよ」と言っても虚しいだけのなで、今のうちに、「おかしいと思う」という意見表明だけはしておこうと思います。

特に放射性物質の生物濃縮が危惧される野生のキノコを食べるとか、福島第一原発に近く統計上有意なレベルで放射線被曝による障害が出るところに住むとか、そういうことはもちろん避けなければいけません。でも、「ただちに影響はない」レベル、影響があるかどうか分からないようなレベルで大騒ぎし「ゼロ」を求めることはやはりおかしい。それでは身動きが取れなくなるばかりか、誤った方向に進んでしまう危険だってある。見えない放射性物質を穢れ(けがれ)のように忌避するだけじゃ何にもならないと思うのです。

May 29, 2011

ロバを売りに行く親子。

ずーっと昔、子どものころに読んだ絵本に載っていた童話「ロバを売りに行く親子」のお話を、最近時々思い出すんです。お話のあらすじはこんな感じ。

*   *   *

ろばを飼っていた父親と息子が、そのろばを売りに行くため、市場へ出かけた。

2人でろばを引いて歩いていると、それを見た人が言う、「せっかくろばを連れているのに、乗りもせずに歩いているなんてもったいない事だ」。なるほどと思い、父親は息子をろばに乗せる。

しばらく行くと別の人がこれを見て、「元気な若者が楽をして親を歩かせるなんて、ひどいじゃないか」と言うので、なるほどと、今度は父親がろばにまたがり、息子が引いて歩いた。

また別の者が見て、「自分だけ楽をして子供を歩かせるとは、悪い親だ。いっしょにろばに乗ればいいだろう」と言った。それはそうだと、2人でろばに乗って行く。

するとまた、「2人も乗るなんて、重くてろばがかわいそうだ。もっと楽にしてやればどうか」と言う者がいる。それではと、父親と息子は、こうすれば楽になるだろうと、ちょうど狩りの獲物を運ぶように、1本の棒にろばの両足をくくりつけて吊り上げ、2人で担いで歩く。

しかし、不自然な姿勢を嫌がったろばが暴れだした。不運にもそこは橋の上であった。暴れたろばは川に落ちて流されてしまい、結局親子は、苦労しただけで一文の利益も得られなかった。

http://bit.ly/jVqT7h(Wikipedia:ろばを売りに行く親子)

*   *   *

この童話を読んだ当時はその寓意なんか全然分かってなかったんですけど、今になって読むととても納得するところがありません?

イソップがこのお話を作った紀元前の時代にはもちろんテレビもインターネットもなかったわけで、ロバを売りに行く親子に何かと難癖つけるのは彼らを見かけた道端の人たちだけだったんでしょうが、今や「ソーシャル」の時代。実際には道端にいない大勢の人にも、ロバを売りに行く親子の様子が瞬時に伝わってしまうのです。そして、特にちょっとでも世に知られた人が何か行動を起こすと、twitterなんかでもう、いろんなことを言われてしまうわけです。ありとあらゆることを言われて、私だったらびびってロバといっしょに道路の真ん中で固まってしまいそうですよ。

そしてもうひとつ思い出すのは小泉元首相が発した「鈍感力」という言葉。たしかに注目を浴びる政治家ともなれば、ロバの運び方についていちいちみんなの意見を気にしてはいられない。どうでもいいからロバを運ばなくてはならないわけで、「鈍感力」というのはまた、膝を打つアイデアですよね。

人の意見をまったく聞かないのは褒められたことじゃない。でも、この「ソーシャル」の時代、イソップの頃とは比べものにならない数の人がロバを売りに行く親子の行動を論評し、正直、揚げ足取りのような意見も大量にネットに流されていくわけです。そこからどんな有用な情報を拾い、どう判断し、ロバといっしょに道の真ん中で固まらずに先に進んで行くか。心ない批判、くだらない揚げ足取りに心折れることがない鈍感さ、図太さとともに、そんなリテラシーがないと身動きさえ取れない時代になったなぁと、あの絵本に載っていた幸薄そうな親子の顔を思い出しながら考えるのです。

April 01, 2011

「絶対に」安全、なんてないのさ。

「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という問いには答え難いですよ。なぜなら、確率・統計的事象に対して、「絶対に」安全ということはないですから。言い切らないのが科学的には正しい態度です。

日本で車に乗ってたら走行距離数百万キロで1件というくらいの確率で交通死亡事故に遭遇するし、こんにゃくゼリーで命を落とす人もいる。だから、車もこんにゃくゼリーも「絶対に」安全とは言い切るわけにはいかない。結局、公式には「大方の人が安全と看做す水準を満たしています」というような持って回った言い方にならざるをえないし、それが科学的に正確な答え方だと思うんです。

ところがそれでは納得しない人が少なくない。「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という質問に答える側は、「判断」を示すよう迫られます。

しかしその「判断」は人によって異なるもの。あなたは安全と思うが私は安全とは思わないかもしれない。「判断」は主観的なものなのです。たとえ事故の確率が十分低くても、こんにゃくゼリーで我が子を失った親はこんにゃくゼリーを安全な食べ物とは看做さないでしょう。

さらに悩ましいのは、「安全」か「そうじゃない」かの二択でしかモノゴトを見ない人にとっては、往々にして「安全」といえばゼロリスク、100%の安全を意味していることですよ。「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という質問に「安全」と断言してしまうと、そういう二択の人たちは「事故が起きているのに『安全』とはなにごとか。虚偽だ。」と責めるのです。

といって、「大方の人が安全と看做す水準を満たしています」という言い方をすれば、二択の人たちは、「不正確だ」とか、「ということは危険も残っているのだな。そんなものを認めるとはなにごとか。」とまた責める。

ゼロリスクを求めていては何もできないのです。車にも乗れないし、包丁も使えない。こんにゃくゼリーも食べられないし、それこそ外を歩いていて隕石に当たる確率だってゼロではない。「安全」か「そうじゃない」かの二択ではなくで、危険度を評価することが求められるんです。その上で判断するリテラシーが必要なんですよね。

とはいえ、昨今話題の放射線被曝の危険性については、内容が高度に専門的だし、体感的に理解できないし、自分で「判断」するようを求められても困るという人が多いだろうし、「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」と言いたくなる気持ちも分からなくもない。だからこそ「その数字が何を意味するのか。」ということを丁寧に解説するコミュニケーションが必要になると思うのですが、マスコミも二択の人と一緒になっちゃって騒いでる場面も見かけてしまう。

それで人々は、不必要に怖がったり、過剰に安心したり、果ては情報隠蔽や陰謀論に振り回されたり。悩ましいですね。

*   *   *

うだうだと書きましたが、要は「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」と訊かれる側にはなりたくないなぁ、というのが正直な感想で、今まさにそういう質問に晒されている人たちには同情を覚えるのです。

November 15, 2010

「頭がいい」と「物知り」

「ソーシャル」なサービスが興隆したこともあって、従来型のマスコミに頼らずに現場の情報が入手できるようになりました。当事者の弁が聞けるようになったし、マスコミの舞台裏も見えるようになりました。

twitterだのなんだのっていうツールを活用していると、アフリカの当地のようなネット接続環境が悪くて動画なんかのリッチコンテンツの閲覧が難しい場所にいても、世間で、社会で、世界で起きていることについての最新のニュースやその当事者の弁、さらにそれについての専門家の分析から識者の評価、一般の人々の反応まで見ることが出来る。

一時情報に近いところに誰もが立てて、興味のあることについては深入りして調べることもできる。機械が手足の能力を拡大し、自動車の普及によって人の移動能力が拡大したのと同じように、ネットによって人の目や耳といった感覚器の能力が拡大されたような感覚です。

ただね、毎日、たくさんの情報に接して、そのそれぞれの事象にすでに多くの人が多くの意見を述べ、分析し、評価をしているのを見続けると、それじゃあ果たして自分はどう考えるのか、ということに結論を出すのが随分難しくなったように思うんです。

「それもそうだ。」「そっちの言うことも一理ある。」「でも現実はそうだよね。」「やっぱりおかしいんじゃない?」

みんなもっともらしくて、「私」の意見はどうなのか決めかねる状況が増えているような。

*   *   *

なにかの計画を立てたり、なにかについて論説したりするときに、手元に資料を集めて机上で検討しているときには、思い切った結論を述べたり、立派な理論を主張したりできるのに、その現場に行って生の声を聞いて現実を深く知ってしまうと、途端に歯切れが悪くなるというのは何度も経験したことがあります。「そうは言っても、これが現実だからねぇ。」「お言葉ごもっともだけど、でもさぁ。」そんな感じです。

現場にいる人々に対する情に流される、というのも多分にありますけど、机上で考えていたときには見えなかったことが見えてきて、考慮に入れるパラメーターが増えて判断が難しくなる、という感覚ですね。

ネットが社会のプラットフォームとしてこなれたものになってきて、これと同じ感覚を覚えます。机上、というか端末の前に座ってしまうと、現場に行っていなくても現場に近いところからの声が聞こえる。さらにそれに対する多くの意見も聞くことが出来る。

*   *   *

ネットの普及によって、だれでも擬似的に現場を見ることができる。少なくとも現場に近いところの人の声が聞ける。これは素晴らしいことだと思うよ。でも、他方では今まで以上に「私」の判断力が試されているように思います。

「じゃあ、あなたはどう考えるのか。」

たくさんの情報が入手可能になった分だけ、パラメーターが増えた分だけ、考える力がシビアに試されるようになったよね。

「考える力」「賢さ」、さらに言い換えれば「教養』「英知」っていうのは情報や知識を溜め込んでいるのとは違う。情報や知識を持っていることは前提条件で「考える力」っていうのは次元の違うことだっていう、当たり前のことを改めて認識しています。


と、ごにょごにょ御託を並べてますが、要は「頭がいい」と「物知り」がイコールではないってことは、ネット社会になって一層痛感させられるよね、って話です。

November 12, 2010

18世紀以来の外交の変革期、かも?

もう議論も出尽くした感がありますね、尖閣諸島沖の海上保安庁巡視艇と中国漁船の衝突の様子を収めた動画がYouTubeで流出した件。

で、それに関して、なんら目新しい答えや意見を出せるわけではないんですけど、ただ、今回の海上保安庁の動画流出の騒ぎを見ていて、政治や外交の世界も、ネットの世紀になって新しい時代に入りつつあるのだなぁと感じたりなんかしてるので、ちょっとだけその感想を書き残しておこうかと。

外交ってさ、古くは国王とか皇帝とかの専権事項で、要は王様が使節を送って外国と物事の調整をする作業だったわけでしょう。成功も失敗も最終的には王様自身の威信の問題で、王様の責任だったんですよね。そこで民が意識されることは少なくて、国家を体現する王様とその取り巻きや貴族達だけが情報を独占してた。民は戦に駆り出されるばかり、って時代だったはず。

ところが、18世紀頃から今風の議会政治が成立する国が出て来て、民主制、議会制民主主義の国が出て来た。外交は政治を通じて間接的に民の信託を受けた外交の専門家が行うようになった。で、この時代から新聞というメディアも発達してきて、主権者たる国民も、曲がりなりにも情報に接することができるようになってきて、「情報を持った民がいて、少なくとも建前上は最終的には彼らが決める」という新しい環境を前提とした、現代にまで続く外交の手法が構築されていったんですよね。もちろん紆余曲折があり、様々な問題や失敗も経験してるんですけど、外交の秘密保持と情報公開のバランスとか、政府と外交官と新聞の関係のあり方とか、民主外交に必要なノウハウや経験が積み上げられていったわけです。

そしてラジオ・テレビの時代がきた。新聞より速報性があり、民に対する訴求性も高いメディアなので、またそこでも外交の新しい方法論が積み上げられていったんでしょう。が、しかし、それは新聞というメディアとの付き合い方の延長線上にあったように思います。新聞より速い、新聞より情報量が多い、という違いはあれど、情報の流れ方には基本的に違いはない。そう、「マスメディア」であることには変わりない。

ところが、ネットの時代は本質的に新しい。政府と外交官とマスメディアの3者の間で培われた枠組みの外側に、まったく新しい情報のルートができつつあるんだと思うんです。だれしもが新聞やテレビの力を借りずに情報を拡散する力を得て、この3者のコントロールの及ばないところで情報が大々的に流れるようになってますよね。Wikileaksも、公安情報の流出も、海上保安庁の動画流出も、今までとは全く違う情報の流れを作っている。従来型のマスメディアの枠外の話になってる。

確かにすごいことになってきたんじゃないですかね? 封建時代の外交から近代外交に移り変わった18世紀以来の大きな地殻変動のような気がしているんです。「外交と情報」という視点から見ると、18世紀初頭以来の、2、300年ぶりの新局面じゃないかと。国民主権と言いながら、選挙の時以外は観客に過ぎなかった市民が、ネットというプラットフォームの上にソーシャルメディアという情報空間を得て、政治と外交とマスメディアという既存3者が300年安住してきた心地良い空間を激しく揺さぶっている。そんな感じがするんですよね。

だったら、この新しいセットアップのもとでの外交はどうあるべきなのか。情報のコントロールはどうあるべきで、どういう風な政治が求められて、市民にはどんな教養が必要とされるのか。私には今のところはなんの回答もないんですが、ただとにかく、私たちは新しい地平に立っているんじゃないかなー、すごいことになってきたなー、というのは実感するんですよね。

July 28, 2010

「波紋が広がる可能性がある。」

7月26日:東京新聞(共同通信)
「新駐中国大使の丹羽宇一郎・元伊藤忠商事社長は26日、都内で、中国の国防費が2009年まで21年連続で2けたの伸びを記録したことに触れ、軍事力増強は「大国としては当然のことといえば当然のことかもしれない」と述べた。
 国防費の大幅な増加に対しては、中国脅威論の象徴として日本や米国などで警戒感が根強いだけに、民間人初の駐中国大使として今月末に着任する丹羽氏の発言は波紋を広げる可能性がある。

7月27日:産經新聞
「JR東海の山田佳臣社長は26日に名古屋市で開かれたリニア中央新幹線の建設促進を求める集会で、中国・上海のリニアモーターカーに触れ「あちらが小学生のおもちゃなら、わたくしどものリニアはiPadみたいなものだ」と発言した。
 米アップルの多機能端末「iPad」を例えに自社の技術の優位性を強調しようとした発言だが、波紋が広がる可能性もありそうだ。

もう、こうい書きぶりにはウンザリです。

人の揚げ足をとっておいて、それがあたかも社会の良識に反しているかのように導く。記事を書いている記者が自分の責任で批判するのではなく、他人に預けた格好で批判を展開する。

どこに「波紋が広がる」のか? 大新聞が大好きな「世論」が発言を批判している、とおっしゃりたいんでしょうね。しかし、彼らのいう「世論」って、どこに実体があるの? 

「ほらほら、こんなこと言ってるよ。おかしいよね?ね?問題だよね?そう思うでしょ?ほら、こんな発言した人は糾弾されるべきだよね?ね? ほーら、みんなこの発言は問題だって言ってるよー。」って言ってる感じ。で、彼らのいう世論とはこんな幼稚な誘導に「そうだ、問題だ。」と反応する市民の集合体ってことなのかもしれないけど、そんなもの、実在しないよ。

百歩譲って、発言の内容が本当に問題で、大きな問題を起こす可能性のあるものなら、「波紋が広がる」と書いても許されるでしょう。たとえば、時の総理大臣が日米安保は見直すべきだと発言したとか、元与党幹事長が官房機密費は政治評論家の買収に使ったと発言したとか、ならね。

でも、丹羽氏、山田氏の発言は青筋立てて非難すべきことか? ひとつの見方であり、一片の真理を含むものではないか? 

この発言の記事を書くなら、「波紋が広がる可能性がある。」ではなくて、「問題であると考えられる。」と、記者の署名入りで書けよ。揚げ足取りの話をあたかも「世論」が糾弾しているかのように書くようなことをやっておきながら、ネットの世界は匿名で危険で信用ならないとか言う。どっちが卑怯なのか、よく考えてほしいよ。

July 10, 2010

最近、支持率調査っていかがわしくないですか?

参議院議員選挙が近づいていますね、という件で引き続き。

海外にいるので、毎日拡声器で名前を連呼する煩わしい選挙カーなんかとは無縁だし、日本のテレビ番組もほとんど見れないので(NHKワールドを時々見てるだけ)選挙の雰囲気は今ひとつないのですが、ネットのニュースを見てて思うのは、「報道機関って、こんなに始終世論調査をやってたっけ?」ってことなんですけど。小泉政権退陣後くらいからなんですかね、なんだか毎日のようにどっかで世論調査っていうか、政党支持率調査をやってる。

で、○○政権の支持率がまた下がったまた下がったと嘆いてみせる。それから、支持率が下がったのを見て、「〜への批判が影響していると思われる。」とか、したり顔な論評を書いてみせる。

でもね、このところその支持率調査の回数が多過ぎるというものあるんですけど、なんだか以前よりもマスコミのやる支持率調査、世論調査の説得力がなくなっていると思うのは、私だけ?

その1。
「無作為に電話をかけて意見を聞くRDD法で調査を行っています。有効回答率は65%。」っていうのが典型的な感じだけど、これって大丈夫なわけ? まず、「電話をかけたときに家にいる人」っていうところでバイアスがかかってるような気がしない?昼間電話してるのか、夜電話しているのか知らないですけど、有権者全体っていう母集団を正しく代表させるサンプルになってるのだろうか。もし昼間電話しているんだとしたら、会社員はほとんど電話にでないしさ。
 それから、有効回答率が6割、7割っていうのも、いいわけ?回答を拒否している人は、なんらかの理由があって回答してなくて、そこに何か有意なことが潜んでるんじゃないの?

その2。
マスコミが時の政権をけちょんけちょんに貶しておいて、そのマスコミが支持率調査をやるって、変じゃない?マスコミに批判的精神は必要だけど、いまの大手マスコミはあらゆる局面で揚げ足をとり、くだらないことを責め、「どうです?みなさん、○○総理はこんなにダメなんですよ。」って宣伝しまくるのが仕事になってるので、腹一杯そんな宣伝流しておいて、それから支持率調査をやったら、メディアリテラシーのあまり高くない層は「そうだそうだ!」って「支持しない」って回答するんじゃない?
「メディアリテラシーのあまり高くない層」ってやんわりと表現したけど、要はよくものを考えていないっていうか、内田樹先生の言葉をお借りすれば、「公民的成熟」が足りない層、っていう意味で使ったんだけど、マスコミの世論調査って、この層をターゲットにして調査を行ってないかって懸念がある。実はそういう層ってかなり厚いよ。mixiのニュースって、ニュースに会員がコメントを付けられるようになってますけど、ずらって並んでるあそこのコメントを見てみたら、反論する気にもならない意見、ノイズが山ほどぶら下がっててるじゃないですか。ああいう「公民的成熟」の足りない層にマスコミが「ほら、ひどいでしょう?」って訴えて、世論調査をやってるんじゃないの?マッチポンプっぽい話だけど。

その3。
世代間の対立に話を持って行きたくないので書くのは気が引けるんだけど、高度成長期に青年期壮年期を過ごしてきて人生に迷いが少なかった世代、がんばって努力すれば報われる、きっと明日は良くなる、って実際に良くなってた時代に第一線だった世代・・・団塊の世代とその上の世代・・・の意見がことさら大きく取り上げられてない?というのは、旧来のマスコミって、彼らのマスコミでしょ?それより下の世代は、旧来のマスコミも情報ソースのひとつだけど、その存在が相対化されてると思う。ソーシャルメディア、ネット論壇の情報に接してない層の「支持率調査」ないのって、疑っちゃう。


と、ぐだぐだ書いてみたけど、毎日毎日やられる報道機関の支持率調査、あれ見てると、なんか番組制作者側、報道側の人が、なんとかして政府、政権の足を引っ張って、支持率が下がれば手柄のように喜んで、辞任や罷免となれば「してやったり」って得意顔で自慢してるような様子が目に浮かぶんですけど。違うのかな?私の思い込み?

July 03, 2010

誰が新聞を読んでいるのか。

当地でも、何日遅れかの日本の新聞(国際・衛星版)が買えるのですが、BBCだのCNNだのがあるし、事務所だとかろうじてNHKも見れるし、あとはネットで事足りる、ってことであんまり日本の新聞は見てませんでした。

が、こないだ、某読売新聞もこの地域で入手できるようになりました、って見本が届いていたので、久しぶりに見たんですよ。

そしたら、すごいんだよね、その紙上に出ている広告が。久しぶりに見て、びっくりした。片っ端から拾ってみると;

「アパート経営しませんか?」
「高畑淳子のゲルマニウム・コロコロ美容器具」
「尿もれが臭わない・目立たないパンツの通販」
「レディース・アートネイチャー」
「四季草花図掛け軸の通販」
「ウォーキング用の滑りにくい靴『楽足』」
「社団法人日本脳卒中協会」
「聞きづらい声もキャッチ・オムロンのイヤメイト」
「にんにく卵黄」
「強力わかもと」
「永く暮らそう『那須高原平和郷分譲地』暮らし安全サポート付」
「山田養蜂場のローヤルゼリー」
「マルウェイ書房『自分の棺はかつげない』」
「一万年堂出版『歎異抄をひらく』」

・・・

見事に中高年・老年向け広告ばっかりだよ。ほんと、お見事。だれが新聞を読んでいるのか、 一目瞭然です。新聞がエラそうに講釈たれて、「批判」という名のちっとも建設的でない文句ばっかり流してるのも、この世代の耳には心地よいんでしょうな。

しかし、新聞がヤバいとは聞いていましたが、これは相当マズいいよね。次の中高年・老年世代(今の青年・壮年世代)が新たな新聞購読層になる見込みがあるとは思えないしさ、ジリ貧になるのは素人目にも明らかじゃん。